紀行、小説のノベログです 日々感じていることを盛り込み綴っています

「自転車と列車の旅の追憶」 紀行 完
「大海原」 紀行 完
「家族」 小説 完
“Soul bar-IORI” 短編小説 完

「家族」 新たな地 1

 綾香がギャラリーに来て5年が過ぎようとしている。


 夏期の低山での撮影にはアシスタントとして敏也に同行し、写真に益々のめり込んで行く。写真の上達も早く、現像をしている佐々木も綾香の感性には驚くばかりだ。


 長野から来た知明子も今年33歳を迎え、若くして苦労した長野での生活を振り返ることもなく、カフェの仕事を楽しんでいる。通院の必要もなく、薬も服用していない。夜はぐっすりと寝れているようだ。


 敏也は集大成として富士山の撮影に挑み、写真家の引退を考えていた。単に美しい富士を撮るのではなく、富士と関わる人々の暮らしを中心に描いていくつもりだ。そして、引退後には富士の見える地で、小さなカフェを営みのんびりと生活をしたいとも考えている。


 敏也は、会社の役員である英子と多くの話合いを持ち、土地の購入と店舗兼住宅をの建設を決め、40半ばを目前にした今がその時であると行動に移して行った。


「知明子さん、先生は写真家の集大成として富士山に取り組む予定なの。撮影期間はそうね、2年から3年、いやそれ以上かもしれない。その期間、現地での先生の生活を支えて欲しいの」


 敏也の意向を英子は知明子に伝えていた。アシスタントには綾香を同行させ、3人での生活が始まる。借り入れのお願いをしたときの、敏也の言葉を知明子は思い出していた。


 綾香にもしっかりと伝えられ、それ以来、すべての撮影に綾香が同行することとなった。


 テントや山小屋泊を伴う撮影には歩荷(ぽっか)が帯同するが、疲労は低山の比ではない。しかし、その苦難を乗り越え見ることが出来る景観は、より一層感深いものがある。その感動をどう写し込むか、見るものにこの感動をどう伝えるのか、綾香の試練はまだまだ続く。


 夢にまで見た美しい景観を見ることが出来たのは、写真家を目指す綾香には、到達点ではなくスタートに立てただけのことである。
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「家族」 ちあねー

 
 敏也は佐々木を伴い長野を訪れていた。出発の前に、


「夏までに、英子さんに山のことを詳しく教えてもらい、トレーニングをしっかりやって体力を付けておけよ」


と綾香に伝えていた。幸い自転車は心肺機能を高める為にも適しており、足の筋力アップにも、普段使うギアを一段上げ、回転数を減らさないことでより鍛えることもできる。綾香は山を目指し、まだ見ぬ雄大な景色を思い描き、一層自転車に励んでいる。


 長野を訪れると敏也は一軒の焼き鳥屋によく足を運ぶ。20代後半の夫婦が営み、立地に恵まれず店は閑散としているが、朝絞めの地鶏を仕入れ、丁寧な処理、仕込がされていて内臓肉は絶品だ。また、もの静かで生真面目な旦那と、底抜けに明るい奥さんのやりとりも愉快で、居心地の良い店である。


 敏也と佐々木が久しぶりに訪れた心屋ののれんをくぐると、奥さん一人がカウンターから顔を覗かせている。以前とは打って変わり重苦しい雰囲気だ。


 姿の見えない店主を気にし敏也が尋ねると、どうやらあまり芳しくない様子で、酒と女に溺れ店を空けることが多いと言う。散々愚痴をこぼした揚げ句に、店を整理するために必要なお金を貸して欲しいと頼まれる始末だ。


 話の途中にもいくつか薬を飲んでいた奥さんに、


「いずれ伊豆に向かうことになるが、ここを整理し私の仕事を手伝うことが出来るなら」

と、敏也は答えていた。

 敏也にとって調理も接客も出来る人材は必要であり、彼女の人間性もよく知る。それに薬が心配だ。大方、話の内容から、服用している薬が何かは察しが付く。多くの事情があるであろうが、薬に頼るほど心を痛めてしまったのであれば、一旦土地を離れ、やり直すこともよいのかもしれないと考えていた。


 撮影が終わり敏也と佐々木は、すべての整理が終わった知明子を連れギャラリーに戻った。


 接客が得意な知明子は常連客からもすんなりと受け入れられ、店に馴染むのにそれ程の時間は掛からなかった。また、信州の言葉を気にせず話すことも好感を持たれるようだ。綾香にもよい影響を与え「ちあねー」と呼び慕っている。


 日増しに知明子は本来の明るさを取り戻し、通院で店を抜けることもずいぶんと減ったようだ。ただ、敏也の構想を知る英子は、一点の曇りもなく歓迎出来ることではないようだ。
 
 この頃、敏也の離婚が正式に決まった。
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コラム 「音楽、音学、音が苦」


 なんだか訳のわからないタイトルで始まったコラムです、、、汗
 これ、最後までわけのわからない内容と思いますので、、、ご勘弁を


 音楽が好きな方って多いですよね、私も大好き。音を楽しむ、と書いて音楽 楽しいことは、ほんといい事。世の中、楽しいことだけなら、どれだけ幸せなことなのか、、、おっと、楽しいことだけだと、楽しいことは、なくなってしまいますね。嫌なことがあって、楽しいことが成り立ちます。


 そして音楽って、学校で習う教科もこの字のまんまなんですよね。これって凄くない? 私だけ?そう感じるの、、、なんか教科だったら平気で「音学」にしちゃいそうな感じもするのです、日本。でもこのまま使うのって日本も「やる~~、いいとこあるじゃん」って感じです。


 だったらさ~、数学もさ「数楽」にしてくれりゃ、もっと理解できたかもしれない、、、そんな訳ないかww。数字は楽しいよ~、あんなことも、こんなことも、解決してくれて、多くのことを導き出してくれるってね。


 と、数字が苦手なことの責任転換をする私、、、でも、小学校の「算数」やめて「数楽」でもいいんじゃないかなぁ~って、本気で思ったりもしちゃいます。


 また 余計なこと書いてると本題に進めないから この辺でっと、、、


 さて、音楽は好きでも演奏はちょっとって人、多いですよね


 まぁ、楽器を演奏するにはそれなりの練習や、それこそ音学?wの理論なんかちょっと理解しないとだめかなぁ~て、敬遠される方も多いのかもしれません。


 でも、字の通り楽しいことが前提なので、それほど深く考えることもないんだと思います。


 楽しく感じることは、それなりの決まりやルールと言うか、個によってバラつきもるでしょうが、そんなこともあって当然だと思うんです。


 ちょっとズレるかもしれませんが、映画を楽しんでて、周りにうるさい人がいれば迷惑だし楽しくもなくなっちゃいます。まぁ、つまみ出されるでしょうけどね、そんな人、、、


 ちょっとしたルールや気遣いがあって楽しいことも成立するわけです。


 音楽に例えると、「不協和音」なんかが楽しくは思えなわけです。理屈じゃなくて、聞いて気持ち悪いってことです。ただ、それだけ、楽しくないだけ。


 楽しくなけりゃ「音楽」じゃないわけですよ、これ。で、一生懸命に勉強するのも楽しくないわけです。少なくとも私にとってね。


 音楽を勉強しよう、学ぼうな~んて「音学」しちゃうと、音が苦しくなってしまいます。「音が苦」ですねww。意味わからんし~って、失礼しました、、、汗。楽しい気持ちで音を出すと、これ不思議なもんで、楽しい音が出ちゃったりします。


 音楽はとっても簡単なことです。楽しむことですからね。楽器にこだわる必要もなく、単にコップやお皿を並べて、割り箸でいいから好きな音楽に合わせて叩いてみると、これ、立派な「パーカッション」であります。お皿はうるさくて怒られるかもしれませんが、本とかでもいいかと思います。もう電話帳があれば最高!厚さや叩く位置によっても音が変わり、結構楽しめちゃいます。 


 私もドラム練習してたときなんか、スティックだけ買ってきて電話帳を並べて練習してましたです、はい。辞書も使いすぎて、、、ボロボロ


 聞くことが楽しいのはもちろん、やってみるのも楽しいものです。で、何が言いたかったんだろう、この項で、、、私。