紀行、小説のノベログです 日々感じていることを盛り込み綴っています

「自転車と列車の旅の追憶」 紀行 完
「大海原」 紀行 完
「家族」 小説 完
“Soul bar-IORI” 短編小説 完

「家族」 雪子 2


 雪子は決して裕福とまではいかないが、大手出版会社に勤め、趣味の自転車で遠方に出かけるぐらいのゆとりは十分にある。今までは奨学金の返済があり貯蓄に回すだけの余裕はないが、この先は可能だ。ただ、自分が求めているものは何かを考えたとき、簡単に答えなど出ることではないが、今の生活で得られる事ではないと感じている。


 生きるとは、仕事とは、そのことをずっと思い仕事を続けていたのだ。今の彼は同じ会社に勤めるエリートだ。彼と結婚すれば安定した生活は望め、それが幸せなのかと思うこともあった。ただ、仕事では企業のトップと話す機会も多く、成功者の多くが、家族が、本当の幸せを感じているのかと思うと、多くの疑問が残ってしまう。伊豆のカフェで見たスタッフの笑顔、実際に自分が手伝いをし、感じた楽しい気持ち、その全てを包み込む敏也の大きさに多くのことを感じた。


 今まで少しずつ感じてきた思いが、伊豆に行ったことで一気に噴出したようだ。雪子は退職届を出し、彼とも別れを告げていた。


 職場での引き継ぎを終え、アパートを引き払い、そして、まとめた荷物を送った先はちゃりんこカフェであった。


 留守を預かる知明子は届いた荷物に驚くが、そのまま雪子が泊まった部屋に荷物を片付けていた。


 翌日、一本の電話がカフェに入り、着信番号を確認すると送り状に書かれていた雪子の番号に間違いはないが、知明子が出ると無言で電話が切れてしまった。こちらから再度かけ直すか悩んでいると、再度コールが鳴った。


 またしても無言のままだが、知明子が、


「雪ちゃんね、何も心配いらないからね」


と知明子が話しかけると、受話器の向こうから泣きながら


「ごめんなさい。勝手に荷物送ってしまいました」


と詫びた後、言葉が続かない。知明子は


「だから、何も心配することないから、雪ちゃんが思ったようにすればいいのよ」


と優しく諭し、近くにいるなら迎えに行くと伝えたが、雪子は自力で向かうと言い電話を切った。


 そして2時間ほど後、カフェの前に泣きながら立ち尽く雪子を、心配で外を覗きに来た知明子が見つけ、中に招き入れた。


 知明子は何も言わずにただ雪子を強く抱きしめた。そしてすぐにマスターが戻るので、自分の意思を伝えなさいと話し、雪子はうなずき、差し出されたコーヒーカップに手を当てた。
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「家族」 雪子 1


 翌日、問題なく敏也は目を覚まし、開店の準備をすすめると、自転車で来た一人の女性が外で待ち、英子が中でお待ちくださいと声をかけている。


「いらっしゃい、今日は早いね。すぐコーヒー淹れるから少し待ってね。それにお一人?」


「はい、今日は一人なんです。昨夜から三島にいて、朝、飛んで来ちゃいました」


 彼女は新潟の生まれで、幼い頃に地震で両親と死別し叔母の元で育ち、奨学金で大学を卒業し出版社に就職したと話す。仕事中心に生活をしていたが、奨学金の返済も終わり、自分のこれからの人生を考え直したいとも打ち明けた。そんな彼女に敏也は


「人それぞれに生き方はあるので、何が正しくて何が間違ってるとは言えないけど、私は今まで自分の好きなことだけやってきて、これからもそのつもりだよ。自分より仕事、家族より仕事って、それでみんな壊れてしまうんだよ。豊かさは、上っ面だけで、心は満たされてないのかもね」


 時間は経過し朝のピークを迎えるが、綾香の姿は店にはなく知明子が一人ホールで奮闘している。


 客がレジに向かうと彼女はトレンチとダスターを持ち、自然と身体が動いていた。学生時代にカフェでバイトをし、ここに通ううちに知明子の動きを見て大方仕事を把握してしまったようだ。知明子が礼を告げると、


「私、雪子って言います。宜しくお願いします。知明子さん、エプロン貸してください」


と洗い場にも入って手伝いをする。雪子の楽しそうな笑顔に敏也も英子も甘えそっと見守っている。


 朝のピークが終わり客が引けると、4人はコーヒーを楽しみ、知明子が改めて雪子に礼を告げ、敏也の指示で封筒を手渡した。雪子は受け取りを拒み、


「私が勝手にしたことですし、そんなつもりではないんです。それに私、とっても楽しかった。それだけで十分です。こちらこそありがとうございました」


と、逆に頭を下げているのだ。敏也は徐に席を立ち、窓から富士を眺め、


「今日はいい天気だ。明日の天気も問題ないから、きっとランチも忙しくなるぞ」


「綾香、起こしますか?」


英子が尋ねると、今の綾香に大切なことは、身体を休めることだと言い、困った素振りを見せると、


「もし、ご迷惑じゃなければお昼からも手伝わせてください。私、そうしたいんです」


 ランチの営業は雪子の手伝いもあり、滞りなく終えることができた。ピークを終えた頃に顔をだした綾香も加わり、片付けに入った。


「雪ちゃん、今日、東京に戻る予定かい?」


「いえ、何も決めていませんけど、ホテルが取れるかだけですね」


「部屋ならここの上に空いてるさ。もちろん雪ちゃんがよければだけどね」


 片づけをみなで済ませ、少し早めに店を閉め、敏也がこちらに来てお気に入りのすし屋に5人は顔を揃えていた。


「こんな楽しい日は、ほんと久しぶり」


 雪子の言葉に敏也は多くのことを感じていた。
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「家族」 失態


 敏也の撮影はカフェの順調さとは反対に進捗は思わしくない。単に富士を写すだけなら多くの写真家が素晴らしい作品を残しているが、敏也は似たような作品を残すつもりはない。そして、今回の撮影では、綾香に自分の思う写真を撮るように指示をしており、綾香の目指す被写体をもとめ、山の奥深くまで足をすすめることもある。


「先生、少し遠めに富士山を狙ってみたいな、私。山頂の雪が名残惜しいような感じで」


「そうか、なら、イメージとして稜線はどう切り撮るんだ?」


「そうですね~、ゆるやかで、おだやかな感じ。優しく包み込む富士、かな」


 敏也は地図を広げ、雨乞岳から朝霧高原を挟み望む富士を思い描いていた。中腹にある火口は隠れ穏やかな稜線が広がる。


「ここに登って見てみるかい?」


 敏也は天候をかなり気にしていたが、宿に非常食の手配をし非難小屋の位置を何箇所も確認し二人は山へと入って行った。


 麓に着いた状態では、一日もちそうな気配だ。ただ、山の天候だけは当てにはできない。
 案の定、山頂を目前にした頃から雲が異常に発生し始めた。


「綾香、下りるぞ」


 敏也の声に、綾香は一瞬どきっとしたが、雨の気配は感じられず、


「え~もうすぐ山頂ですよ、お日様も出てますし」


「山は逃げないから、安心しろ。この匂いと、顔に当たる風の感覚を覚えておけ。そして、何事もなく下山が出来たならそのことに感謝し、決して山頂に辿り着けなかったことを悔やむな。目的は登頂ではなく、無事に下山することだ」


 正直、ここまで登った苦労はどうなるのかと綾香は首を傾げたが、指示に従う他はない。匂いも感じることはなかった。


「また登ろう」


 下山を始め宿を目指したが雲の発達が予想を遥かに超え、強い風とともに雨が降りだした。二人は下山を諦め非難小屋に向かうことにした。


 宿では山頂付近の天候と、戻る予定時刻を大幅に過ぎても戻らない二人に、遭難の可能性があると判断した。麓に下りていればつながるはずの電話も通じない。消防と警察、それに宿帳からカフェの知明子の元に連絡を入れていた。知明子から英子に連絡が入れられ、急遽、英子も車を飛ばし、宿に駆けつけていた。捜索隊が組まれ、宿の主人に出された登山届けからルートを確認するが、日も沈み、天候の回復がなければ二次遭難の可能性があり出れる状態ではない。


 英子は、宿で手を合わせ祈る知明子に、


「先生と綾香を信じましょう。今頃安全なところ見つけて二人で美味しい物食べてるわよ」


 執拗とも思える危機管理と山の経験、そして決して無理はしない人と、自身にも言い聞かせるように知明子に話している。宿の主人も非常食を持参していることや非難小屋の場所をいくつも確認して山に入ったと話し、二人を安心させようと懸命だ。


 夜が明け、天候の回復で捜索隊が出発しようと準備をすすめると、すでに下山を開始していた敏也から宿に連絡が入り、二人の無事が確認された。


 宿に戻った二人に怪我もなく、消防隊は病院での診察をすすめたが、受ける必要もない。ただ、綾香は雨に濡れ身体を冷やしてしまったようで、風邪を引いてしまったようだ。警察、消防隊に深々と頭を下げ、自宅に戻り、身体を休めることにした。そして英子は敏也と綾香の体調を心配し、週末の営業をサポートするため日曜日まで滞在することを決めた。
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