紀行、小説のノベログです 日々感じていることを盛り込み綴っています

「自転車と列車の旅の追憶」 紀行 完
「大海原」 紀行 完
「家族」 小説 完
“Soul bar-IORI” 短編小説 完

「家族」 開店

 店がオープンし、店内は淹れ立てのコーヒーの香りであふれ、BGMには爽やかなピアノ曲が流れている。綾香が敏也の膨大なCDコレクションの中から選んでかけていた。


 CDは飲食店のBGM向きに発売されたもので、すでに廃盤であるが、業種、時間帯に別けセットで発売されていたものだ。クラシック音楽がポップス調にアレンジされている。


 演奏者も編曲者も大きくクレジットはされておらず、綾香は誰の演奏かは知らずに選んでいた。敏也は遠い地で無事オープンすることを願う英子に電話をし、オープンした報告と、


「綾香が選んだBGMだよ」


と、そっと電話をスピーカーに向けていた。電話の向こうからは鼻をすする音が微かに聞こえた。


 まもなく、伊豆半島でサイクリングを楽しむ若者を中心に客が集まりだした。JR三島駅からサイクリングをスタートさせ、自転車でほぼ一時間弱の距離である。第一休憩所として重宝され、また、半島の東西、または中央の山地を抜ける分岐の手前であり、多くのサイクリストで賑わいを見せたのだ。


 整備スペースも好評のようで、ポンプを借りる客も多い。適正な空気圧で快適なサイクリングが出来ると共に、パンクの回避にも十分な効果がある。トラブルも事故もなく、無事にサイクリングを終えて帰宅出来る事を、店が一番願っていることだ。


「おはようございます。お店オープンさせたんですね。来て良かった」


と、オープン前に訪れたカップルの来店だ。カウンターに座ったカップル、特に彼女が中の敏也と会話を弾ませ楽しんでいる。壁に飾られた風景写真にも興味を示し、


「素敵な写真ですね、写真の中に吸い込まれそう。それに、メニューもお金掛けましたね、この写真はプロでしょ」


と微笑む。写真に無縁でもない様子で、話を聞くうちに彼女は、出版社に勤め経済雑誌の記者で、各企業のトップとのインタビューを記事にし、撮影も行っているようだ。


「店内の写真もメニューの写真もこの綾香が撮影したもので、お金はまったくかかってないよ」


と、敏也は微笑みながら綾香を紹介していた。女性は綾香に写真の撮り方を教えて欲しいとせがんでいるが、綾香も人物撮影の経験はなく、


「無理です、無理です。人なんて難し過ぎ、文句も言うだろうし」


「そうそう、やたら文句言うのよね、モデルがモデルだから仕方ないですよ、って言いたいけど、言えないし」


女性の言葉に綾香と敏也は大笑いだ。


 彼女はまだまだ話していたいようであったが、会話に入ることもなく退屈そうにしていた彼にせがまれ、二人は店を後にした。


 天候にも恵まれ、多くのサイクリストが伊豆に入っているようで、ランチタイムから泊まり組みが多く店に押し寄せ、待ちもでる程の盛況ぶりだ。忙しくなるに連れ引きつる綾香と、益々テンションが上がる知明子の違いも愉快で、カウンター内から敏也は二人を温かく見守っている。


 15時を回っても、日帰り組みの帰路で休憩に訪れる客で賑わい、中にはボトルを持って入店する客もあり、


「今日、2回目の来店です」


と、元気にアピールする客もいる。


知明子も覚えのある客には、


「おかえりなさい」


と、声をかけている。嬉しい限りだ。


 17時前には客もすべて引け、3人ともぐったりと初日の営業を終了させていた。


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「家族」 新たな地 3


 住居の片付けも終わり、敏也は綾香を連れ行動を開始した。まだ本格的に撮影に入るのではなく、下見で下界での撮影ポイントを探していく。気になる情景があれば、季節、時間、また、どんな天候であればより良い写真に仕上げることが出来るのか、事細かに記録し撮影の計画を立てていく。もちろんシャッターチャンスがあればその都度カメラに収めていく。そして早朝の情景を下見することもあり、住居に戻ることは少なく、麓の宿に滞在することが多い。


 留守を預かる知明子は、家事を中心に時間を費やすが、あまりにも時間をもてあましてしまう。戻った敏也に自分の思いを話し、相談をしていた。


 「せっかくお店があるんだから、オープンさせたいな」


 敏也は知明子に求めることを、滞りなく撮影が行えるようにサポートしてくれることが優先であると説くが、知明子の気持ちも十分に理解出来る。適度なストレスを加えることも、生活に張りを持たせるのであろう。もちろん過度なストレスは禁物だ。敏也は撮影を月曜から木曜に集約し、試験的に週末の土、日曜日のみ営業することを決めた。


 知明子は仕入先の選定や、備品などの購入を英子と相談しながら進め準備に大忙しだ。幸いにして、この地は新鮮な魚介類に困ることはなく、野菜は近くの減農薬で生産する農家に、わけてもらえることが出来た。生産者の苦労を思うと頭の下がる思いだ。


 店名はいくつかの候補の中から綾香が提案した「ちゃりんこカフェ」と決まった。サイクリストの休憩地として、サイクリングロード、観光地の案内も発信して行く。また、自転車の整備が出来るスペースを設け、工具の貸し出し、部品の販売もおこない、伊豆半島を訪れるサイクリストのサポート拠点となる店を目指していく。ボトルへのミネラル・ウォーターの補給も無料で行えるようにするつもりだ。


 英子も訪れ知明子と一緒に開店準備をし、メニューの構成や最終レシピの調整に入っていた。


 朝はドリンクにトースト、ゆで卵、サラダのセットで、お昼はパスタの単品かサラダ、ドリンクのセットである。単価も抑え、朝が480円、お昼がセットで980円からの設定をした。 


 知明子はモーニング、ランチ共サラダバーを望み、美味しい野菜を思う存分楽しんでもらいたいと希望したが、供給量が読めないうえ、生産者の気持がこもった野菜を廃棄しなければならない場面も想定され、サラダ・バーは取りやめることにした。 
 
 パスタはソースに合わせ、カッペリーノ、スパゲティ、フィットチーネを使い分け、ショート・パスタや板状のラザニアもメニューに加わる。そして、季節により素材が変わるが、伊豆の魚介類をふんだん使ったペスカトーレが、単品でも1600円してしまうがおすすめである。原価は優に60%を越え利益が出ることはなく、10食の限定で提供される。


 このとき業者から生ビールのサーバーが届きセットされた。


「ちょっと知明子さん、ビールなんて出るはずないでしょうよ、どう考えたって」


「ですよね、私もアルコール類はまったく考えてなかったんですけど、どうしても先生が、、、」


「呆れた社長ね、まったく」


と微笑み、


「ビールの伝票は会社で支払いできませんからね。先生が個人で頼んで支払いしてください、ってちゃんと伝えて下さいよ。会計士さんに怒られちゃいますよ」


 看板も出来上がり、出入り口上部には自転車を模った木製のオブジェが据えられた。オープンまでもうしばらくである。 
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「家族」 新たな地 2


 伊豆に引越しをした敏也は朝、自転車で10km程走り終え、ダンボールがまだ片付かない店舗でコーヒーを淹れていた。綾香と知明子はまだ部屋から出てくる気配はない。


 「すみません、お店やってますか」


 サイクリング途中の20代半ばと思われるカップルが、駐輪ラックに掛けられた敏也の自転車を見たのであろう、戸を開け声をかけてきた。


 店はオープンしていないがコーヒーでよければと二人を招き入れ、


「お店をオープンさせるにはまだ先かもしれないな。まだ他の仕事に従事していましてね」
 二人は東京から伊豆によくサイクリングに来るようで、特にあまり開発されていない西伊豆が気に入ってるのだと話す。


「お店、早くできるといいな。この辺りは私達みたいに輪行してサイクリングに来る人には、三島駅からサイクリングをスタートさせて休憩に丁度いいんですよね」


「実は私も自転車歴は長くてね、いずれサイクリストが気軽に立ち寄ってくれる店ができたらって思って、先にお店建ててしまったんですよ」


 女性が立ち上がり、店奥の大きなガラス戸から望む富士を眺め、


「わ、ウッドデッキもあるんですね。綺麗に富士山も見えて、もう最高ですね、ここからの眺め。またコーヒーご馳走になりに遊びに来よっと」


 二人はコーヒーと景色を楽しみ、礼を告げサイクリングを再開しに店を後にし、敏也は二人を見送っていた。


「お気をつけて。また、いつでもいらっしゃい」


 敏也はこのとき、何の抵抗もなくすんなりと懐に入って来た女性に何かしら感じるものがあった。そして表情の端々に沈んだ目を見せ、明るく振舞ってはいたが心底からくる笑顔ではないような気もしていた。
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